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Channel: 荒木優太 –マガジン航[kɔː]
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献本の倫理

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元『ユリイカ』編集長の郡淳一郎氏が、4月22日、自身のTwitterにて「「御恵贈(投)頂き(賜り)ました」ツイートの胸糞わるさ」から始まる「はしたない」御礼ツイートを批判したことで、献本という出版界の慣習に多くの関心が集まった。

郡氏によれば、この種の御礼ツイートには「わたしには、「皆の衆、俺(私)はコネがあるんだぞ、大事にされているんだぞ、偉いんだぞ」というメッセージ」しかない。つづけて、「商業出版された本は商品なのだから、それをタダでもらったと吹聴するのは、はしたないことだと、なぜわからないのか。黙って本を読むことが中抜きされていると感じる」と憤りを露わにする。

はじめに断っておけば、私は郡氏の献本観、また書物観や編集観にまるで共感しない。詳しくが後述するが、私が著者として他者に献本するさい、その人にもっとも期待しているのは本のPRであり、賞讃でも批判でも話題になること、注目が集まることを当てにしている。それは必ずしも、新聞や雑誌の書評欄に取り上げて欲しいということを意味しない。ブログでもTwitterでもなんでも、オルタナティブなメディアでつづられた正直な感想や反応というのは、それがたとえネガティブなものであれ、著者としては嬉しく感じるものだ。ある片言を通じて、まったく知らない層の読者に自分の本を認知してもらう、回り回って本を手に取ってくれることがあるかもしれない、という希望を抱く。

ちゃんとステマしろ?

とはいえ、郡氏が提起した問題は思った以上に根深いかもしれない。というのも、彼は献本の慣習自体は批判しておらず、それをわざわざ報告するなと書いているからだ。

言い換えれば、ちゃんとステルス・マーケティングをしろ、と述べている。一般の社会常識的には非難の対象とされる「ステマ」は、出版界においては日常茶飯といっていい。大きな媒体で取り上げられる書物は、著者か編集者か書評依頼者かの差はあれど、だいたいが評者自ら購入しているのではなく、献本の恩恵を受けている。そして、誌(紙)面ではそのことをわざわざ告知しないため、実質的にはステマが横行しているのが現状である。

私はこのような慣習が直ちに正されるべきだとは思わない。どの世界にも説明を要するそれなりの歴史があるからだ。が、こういった状況が、身銭を切って本を購入する一般読者に不平等感を与えかねないものであり、さらには一般読者自身も既にしてその手の出版界裏事情(!?)に気づいていることが周知のものとなってしまった状況にあって、ちゃんとステマしろ、というメッセージが、一般読者に対して敬意を欠くものであることは改めて注意していい。言わなければ気づかない? バカな! 読者がそんなに頭悪いはずないだろ。

恩義を示すために身内に献本する態度からすれば、自著PRのためのバラマキはあさましい。ステマを不誠実だと考える立場からすれば、本入手の出自を明らかにしない褒め殺しは誠実さを欠く。献本において倫理とはなんなのか。

私は自費出版本もふくめて五冊の本を出版しており、それに並行して、しばしば献本を受ける立場になった。自分のことをテストケースとして、できるだけ多くの人が納得できる献本の作法を考えてみたい。ちなみに、献本を受けた、献本された、という表現は正しい日本語的には「恵贈(投)された」と表記すべきだが、少々混乱するので、この文章では〈献本する/される〉で統一することにしよう。

献本する側にとって倫理とはなにか?

五冊のタイトルを世に送り出してきた。『小林多喜二と埴谷雄高』(ブイツーソリューション、2013)、『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍、2016)、『貧しい出版者』(フィルムアート社、2017)、『仮説的偶然文学論』(月曜社、2018)、『無責任の新体系』(晶文社、2019)。第三のものは自費出版した第一のものの増補改訂版で、内容的に重複するところがあるが、一応、別の本だ。

これくらい本を出していると、おそらく合計で80部ほどは献本に費やしてきたのではないか、と勘定している。初版の刷り部数や出版社の大きさにもよるが、直感的にいえば、私以外の著者でも一つのタイトルに20部ほどを献本に回すことはそれほど珍しくないはずだ。加えて、著者の指示なしに編集者が各所へ献本するケースもあるので、私の場合だと計100部ほどが無料で人々の手に行き渡ったのだろう、と推測している。

献本をしたとき、その反応というのはいくつかのパターンがある。五つに大別してみた。

①完全なる無視。
②メールや手紙などの私的なツールでの御礼連絡のみ。
③SNSや個人ブログなどでのやや公的なツールでの御礼連絡のみ。
④SNSや個人ブログでのでのやや公的なツールでの感想投稿(献本を明示する場合もあればそうでない場合もある)。
⑤誌(紙)面での書評。

このうち、圧倒的に多いのは①だ。が、本当に完全に無視しているかどうかは判断の難しいところがあり、たとえば私的な集会や雑談などで本を宣伝してくれている場合があっても、私からするとそれを知ることは原理的にかなわない。また、読んだうえで、本の内容に不満を覚え、とはいえ「あまり年下をいじめるものではない」などと熟慮を重ねたうえで無視に至る場合もあろう。私からすれば単なる無視だが、先方からすれば幾重にも重ねられた配慮に違いない。

②と③でいえば、数としてはどっこいどっこいといったところだろうか。献本する際にこちらから手紙などを挿入すると、②が選ばれ、普段の交流がSNSだと③が選択されることが多い気がする。④になると数がかなり絞られていき、⑤は私自身はあまり経験がない。

④で思い出深いのは、Amazonのレビュー欄で辛辣かつ率直な感想を投稿することで有名な(?)文芸評論家の小谷野敦氏に『これからのエリック・ホッファーのために』を送ったところ、ブログにて拙著の感想を記してもらったことだ。冒頭には「アマゾンレビューを書こうかと思ったのだがこっちに書く」とある。これは想像になるが、おそらく小谷野氏は私の本を余り高く評価することができなかった、つまりはアマゾンレビューで採用されている評価の星の数でいえば二つか三つほどしかつけられず、とはいえ当時まだ20代の若手研究者の足をひっぱるのはいかがなものか、と考慮したすえ、自身の個人ブログでのレビューを選択したのではないか……。その襞のある感情(というのも私の想像にすぎないが)をふくめて、とてもありがたかった。

さて、では献本する側にとっては、①から⑤のうち、どれが一番よいのだろうか。はっきりいえば、どうでもよい。④の段階になると、ちゃんと読んでくれたんだな、と嬉しく感じるが、献本された側が著者である私を嬉しくさせなければならない義務などどこにもないのだから、仮にゴミ箱に直行したとしても何の文句もない。しかも、PRのためにある程度の数をバラまけばゴミ箱直行は確率的に当然生じうることだ。献本されたことの明示についても、受け取った側が自由にすればいいことだと思う。贈ったものをどうしようと贈られた人の勝手だ。

ゴミ箱直行を甘んじても、それでもなお献本をしつづける理由は、私がまったく知らなかったような、また、私をまったく知らなかったような新しい読者に自分の本を届けたいからにほかならない。知り合いたちは、意識的であれ無意識的であれ、私の機嫌をうかがってしまう。私の傷つきやすさに配慮してしまう。生きた人間なのだから当然だ。私にも覚えがある。

が、そういった閉じたコミュニケーションを目的にするのならば、公に刊行などせず、pdfのデータをメールで回し読みしていればいい。商業出版最大のメリットとは、出会う予定もなく究極的にいえば私と不仲になっても構わない人に対して「こんなこと考えてみたんスけど、どうっスかね?」と問えることにある。彼の答えには太鼓持ちの新聞書評にはない(それ自体正しいというよりも、公平であるという意味での)フェアな判断がある。私はそういったフェアネスを愛している。だからPR目当てで献本することと、不特定多数の人々に「買ってくれ」と宣伝することは、私のなかでは矛盾なく両立している。

献本される側にとって倫理とはなにか?

翻って、上記のような考えをもつために、私は自宅に献本されてくる書物はすべて注目が集まるように努める。書影をとり、簡単な説明とともにSNSに投稿、つづけて出版社のホームページにあるその商品のアドレスのリンクを貼って、気になった人がいればすぐさま購入できるように努力する。それがPR係に私を選んでくれた人に対する最大の貢献だとも考えている(下はその一例)。

ただし、献本された事実はどこかで公開する。私は出版業界人ではないため、「ステマ」は恥ずべき行為だという道徳感情があるからだ(もし出版関係者の方がお読みになっていて、「こんな無礼な奴に送りたくない」と思うのならば、送らなくても結構です、特に恨みにも思いません)。

時間の関係ですべてというわけにはいかないが、可能なかぎり読んだ感想はネットで共有する。たとえば先の中川成美+村田裕和編『革命芸術プロレタリア文化運動』(森話社、2019)は、文学中心主義を相対化し、イデオロギッシュにも見えるプロレタリア〈文学〉をより広い〈文化〉運動として読み直す画期的な編著だと思ったので、アマゾンレビューも書いた。

アマゾンのレビュー欄に献本の感想を書く。

献本されたものを悪しざまに語ることはほぼない。せっかく送ってくれたのに、という人間的情緒が邪魔するからだ。もし出来がよくないと思っても、わざわざそれを公にする必要もないだろうと考えてしまう。これは書き手としての自分の弱さなのかもしれない。が、出来が悪かろうが通り一遍のアナウンスは必ずする。フェアな判断は私の紹介を介して本に触れる第三者に任せたい。それが達成されれば私も最低限の務めを果たしたことになるのではないか。

こういった一連の行為は、自分が著者として献本したとき、やってもらったら嬉しいことを先取りしてやっているにすぎない。そのため、このルールを誰かに押しつけるつもりもないし、私からの献本を(私がしたように)扱わねばならないとも思わない。献本に関する自分ルールなるものを持つ持たないということ自体すら個々人の自由にすればいいと感じる。くわえていえば、私のことを「はしたない」と思ってくれてもよい。私は他人から上品な人だと思われたいと念じて生活したことがないので、端的に興味がない。

私が興味深く思うのは、著者の手からテクストが離れ、数々の見知らぬ読者たちのなかで精読と深読みと歪曲を経て、まったく新しいものが生まれるというダイナミズムにほかならない。もしその運動から誕生する怪物が、著者である私の意にそぐわないものならば、また新しく私の方で異論反論を立ち上げることにしよう。さて、今度はどうだろうか? こういうとき真に書物が活きていると感じる。お行儀のいい裸の王様になるなんてまっぴらごめんだ。フェアネスのためならどんな「はしたない」ことだってする。それが私の書き手としての覚悟なのだが、さて、果たしてどうだろうか。


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